2017.2.15
学生時代を振り返る#5-僕とヴィオラとオーケストラ-
学生時代を振り返るシリーズ
その6。今回のテーマは「僕とオーケストラ」です。
※あんまり振り返って書かれてなかったので、後程また似たような内容を別の日にちゃんと振り返ってみようと思います。当然非公開でな。
僕がヴィオラという楽器と出会ったことは、ある意味運命だったのかも知れない。
同時に、僕にとってヴィオラという楽器は、良くも悪くも「大学時代の象徴」として記憶に残り続けると思う。
僕はもともと、クラシック音楽というものが嫌いだった。
聞いてて面白くないし、古風である。興味も全くなかった。
ただ、僕はDTMを嗜んでおり、ヴィオラという楽器を好んで使った。
SC-8850というGS音源を使っていたのだが、この音源のヴィオラは、ヴァイオリンやチェロほどチープでなく、とてもよい音色だったので、愛用していた。
※2011年4月作曲の「絆」。これが僕が愛用していたヴィオラの音である。
その縁があり、僕はこのヴィオラという楽器を知りたくて、オーケストラサークルに見学に行った。
もちろん、クラシックになんて微塵も興味がなかったので、先に吹奏楽を見に行った。でも、吹奏楽の人があまり親切でない印象を持ったので、他の音楽系サークルを探していた。軽音やアコースティックサークルなども考えたのだが、そこにかわいい女性が所属していなかったのでやめたのだ。(笑)
だが、オーケストラには、美人な人が結構いた。だから、入ることを前向きに考えた。
ヴィオラが弦楽器属であることは、音源の配置順から分かっていたが、オーケストラでヴィオラが使われるかどうかは分からなかった。だから、自信なさげに、第一希望をヴァイオリンと書いたのも覚えている。
でも、パンフレットにヴィオラがあることを確認した時から、入るとしたらヴィオラをやる、ということは心に決めていた。
確かに、僕はクラシックは嫌いだった。
でも、実際は「食わず嫌い」なのだ。特に理由があるわけでもない。ただ、単によく知らないからつまらないものだと切り捨てていた。
やってみると案外良いものなのかも知れない。そう思って、僕はクラシックの世界に足を踏み入れることにした。これも、作曲の勉強のためだ。何か得られるものはあるかも知れない。
最初の1年は、別に頑張って練習などしなかった。
僕がサークルに入った大きな理由は「後輩が欲しかった」のと、「クラシックがどんなものか体験すること」、そして「かわいい彼女をGETすること」であり、別にヴィオラが上手くなりたいとかそういう目標はなかった。
それに、楽器の上手さは経験年数に比例するだろうと安易に考え、僕も1年後ぐらいにはクソむかつく上手い先輩程度には上手くなるものだろうと勝手に思っていた。
そんな僕を変えたのが
知り合いに誘われて聞きに行ったオーケストラでした。
詳細は該当記事を参照ですが、井上あずみさんの歌をバックにオーケストラが生演奏しているという光景は、僕にとって絶大な衝撃を与えました。
更に、その中の一人のチェロ奏者がやたらめったら楽しそうに弾いてて、目が離せなかった。
僕も、聴衆の視線を釘付けにしてしまうような、そんな演奏ができたら・・・・・・どれほど素晴らしいことか・・・・・・。
そして、胸の奥からふつふつと、あのステージに立ちたい、あんな感じでステージで演奏したい・・・・・・という気持ちが湧いてきて、抑えられなくなっていた。
当時、僕は
「ひょっとしてちゃんと練習しないと上手くならないんじゃないか・・・・・・?」と思い、2年生になりついに個人練を始めたわけですが、この演奏会を"見て"からは、熱心に練習に励むようになった。
まずは1日3時間。夏休みは5時間。冬休みは8時間を目標に、毎日練習するようになった。何らかの理由で確か8月辺りに1日だけ練習しなかった日があったのは覚えているが、それまでは「何があっても毎日楽器を練習すること」を強く意識していた。
もっともっと上手くなって、もっともっと聴衆の視線を惹き付けるプレイヤーになりたい。僕はそう強く願うようになった。
それからの僕は、とにかく必死で練習した。
特に、サークルの活動日なんかは「絶対に、誰よりも残って練習する」と決意し、団室から人がいなくなるまでは、合奏が終わってからもずっと練習していた。
どんなにお腹が空いても、どんなに疲れたとしても、最後にサー棟を出ることにこだわりを持つようになった。ひどい時は深夜の2時とかまで残るハメになってしまっていた。
もちろん、上手くなるためでもあったし、誰よりも練習することで誰にも文句を言われたくなかったからだ。僕は旅行にも好き勝手行きたかったしね。文句を言わせないためには、誰よりも頑張っている必要があったしね。
2年生が終わる頃には、楽器を練習したい欲により、自らの生活習慣をも変えてしまった。そう、朝練を始めていたのだ。
大学の規制が厳しくなり、深夜に練習することができなくなったのも大きかった。夜にできないなら朝に練習するしかないと、朝に練習を始めるようになった。
朝の6時半、ひどい時は5時や3時半にこっそりサー棟に忍び込み、練習を開始していた。練習がしたいがあまりに、就寝時間が9時とかになる日もあった。それだけ、うまくなるためには練習しなくてはと焦燥感に駆られていたし、それだけ夢や希望があった。
このお陰で、1限に出られるようになり成績も良くなったし、よく朝練に来る後輩の女の子とも親密な仲になり、いつしか恋人と呼ばれる関係になっていた。
僕はヴィオラに救われたと言っても過言ではないし、僕の大学生活は、もはや楽器を中心に回っていたような気がしている。
僕にとって、ヴィオラは夢そのものだった。僕は、ヴィオラは無限の可能性を秘めた楽器だと信じて疑わなかったし、僕はそんなヴィオラの可能性を体現できる奏者でありたかった。
そのために、ずっと頑張ってきた。才能がなくても、努力すればなんとかなると、信じて疑わなかった。それで、ずっと練習してきた。
そして、今。
僕は
自身の限界を感じ始め、生涯のパートナーだと思っていたヴィオラという楽器が、そうでなくなっていく感覚を感じている。
それは、自分がかつて付き合っていた恋人に対する感覚とよく似ている。終わりというのは、案外あっけないもので、唐突に来るものなのだ。
僕には、才能がなかった。あるいは、時間が足らなかった。結局、小さい頃からやってないと、思い通りに弾けないのだ。
死ぬほどとは言わないが、人の数倍は頑張った自信はある。でも、頑張っただけで、結局練習は上手くなかったのだ。あるいは、もっとお金があって、先生につくことができれば、もっとショートカットができたんじゃないかなと思う。
今では、僕はヴィオラをやめたいと思っている。もう、正直やりたくはない。
そう思う原因はいくつもある。
まず一つ、「天井が見えてしまった」ことだ。自分の目標が、達成できないことを現実として直視せざるを得なくなった。
これがまだ、あと1年ほど時間があるのなら藻掻いたのだが、もう今から頑張ってもどうせ大して上手くはならない。自分の目標は達成できない。
そう、僕は「練習する理由」を失ってしまった。目標を失った自分は、もはやヴィオラを通じてやりたいことがない。
そして、僕は6年間(正確には1年の空白があるので5年であるが)、オーケストラをやってきたわけだが、結論として
僕は「アンサンブル」にあまり興味がないのだろうという感覚はある。
そう、僕のルーツはあくまでも「自身がどういう演奏をするか」であって、オーケストラの音がどうとかではないのだ。
僕がやりたいことは、いわゆる「演奏動画」みたいなものも含まれているが、自分が満足いく演奏ができればそれで良かったし、逆に言えば人がどういう演奏をしようが、全く興味がなかった。他のパートと合わせるとか、正直どうでもよかった。一応、やらなきゃいけないからやったけど、聴衆にどう聞こえるかとか、別にどうでも良かったのだ、僕にとっては。
まぁ、さらに逆に言えば、自分の演奏に永遠に満足できなかったため、打ち上げも行かずに本番の後に一人で練習しているだなんてキチガイじみた行動もしていたわけですけどね。
僕は以前つぶやいた。「オーケストラは別に嫌いなわけじゃない」と。
でも、好きでもないのだ。僕は「自分の思い通りの演奏がしたい」だけであって、楽譜の指示とか、指揮がどうとかって、正直ほんとにどうでもいいと思っている気がするのだ。
もちろん、オーケストラの一員である以上、厳守しようと励んでいる。
でも、それは「楽しいこと」ではないし、「やりたいこと」でもない。
もちろん、それは練習にはなる。でも、もうそこまでヴィオラが上手くなりたいと思わなくなった今、しなくてもよい努力をしなくてはいけないことが、もはや苦痛と時間の無駄にしか感じなくなっている。
現役時代に僕が吐き散らした暴言の一つに「僕はオケがやりたくてヴィオラをやっているわけではなく、ヴィオラをやるためにオケをやっているのに過ぎない」という言葉があるが、まさにその通りで、僕にとってオーケストラは「人に出会うための場」でしかなく、別にオーケストラをやりたいわけではなかった・・・・・・ということに、最近気づいてしまったのだ。
僕は、自分が気持ちよく弾ければそれで良いし、弓順とかも、本当は人に決められるのは好きじゃない。
僕は、一人で好き勝手やりたいのだ。一人で思うような音楽を、音色を、奏でたかったのだ。
昔の人が作った曲を、コピバンとして演奏すること自体に、僕は魅力を感じていない。
それが素晴らしい作品であったとしても、youtubeで聞くなり、生演奏にこだわるならプロオケに演奏してもらって聞いてもらった方が絶対楽しい。
僕がオケをやっている理由なんて「ヴィオラを演奏する機会」がそこにしかないし、単に「共通の趣味」としての道具としか使っていないのが現状だ。
特に最近は、オーケストラの譜面をさらっていて、楽しくないなあと思うことが増えた。
もちろん、それが義務だからさらうし、弾けるようになる努力もする。でも、やりたくてやっているわけではない。正直、仕方なくさらっている面が強い。
まぁ、乗るって言ってしまったし。本当はやりたくないんだけど、途中で自分勝手に降りるととても迷惑だろうし、やるっきゃないのだ。
そんな自分の気持ちに気づいてしまうと、僕はもうオケを辞めるべきなのだという気持ちが日に日に強くなっていく。
大して上手くなれないのなら、オケだけじゃなく、ヴィオラもきっと辞めた方がいいのだろう。
僕はきっと、みんなとオーケストラする、ということを楽しめていない。
それは、僕に「楽しいと思えるきっかけ」がないだけかも知れないし、根本的に向いてないのかも知れない。
だって、僕はもともと、作曲畑の人間だから。自分の作った曲を、自分の思い通りに弾くのは絶対に楽しいと思う。でも、人の作った曲を、自分と違う解釈で弾かされるのは、別にそんなに好きじゃない。でも、それが「アンサンブル」というものなのだ。みんなで一つの音楽を作り上げるためには、そういう犠牲も必ず必要になるのだ。
かといって、僕がこういう解釈でやりたいのだとアピールしても、結局それは「じゃあお前がオケ作れよ」という話になるし、人のオケで自己主張するような体力と権力もない。
第一、自分がオケを作ったところで結局何も変わらない。そもそも、オケを作るような人脈と熱意が、そもそもないんだけどね。僕はオーケストラを、愛してはいない。
周りの音と合わせることに、さほど執着しない自分は、果たしてオーケストラの一員として存在するべきなのだろうか。オーケストラを楽しむことができているのだろうか。
最近は、思い通りに体が動かず、周りの音もよく分からない現状が苦痛で、自分はオーケストラに向いていないことを痛感するし、別にそれが「自分のやりたいこと」でもないことを理解してしまい、これからの自分の身の振り方を確信するに至りつつあるのだ。
これだけ頑張っていれば、多少は自分が上手くなったと思っていた。
でも、それも間違いだった。これだけ練習して、この程度のレベルにしか到達できていなかったと痛感することが最近とても多い。
そして、そんな自分のレベルの低さに絶望し、嫌気が差していく日々。もっと効率的に練習できていれば、教えてくれる人が身近に居たならば・・・・・・。そんな言い訳しかできないが、これが紛れもない現実である。僕は、下手くそなのだ。
僕はきっと、近い将来、ヴィオラからは離れることになる気はしている。
譜面をさらうことも、別に好きじゃないし。オーケストラも・・・・・・別に嫌いじゃないけど、僕がオーケストラに求めているのは、演奏技術じゃなく、人間との交流の場だ。
でも、その共通の趣味であるはずのクラシックで、「共通の話題」が作れない自分は、結局オーケストラに所属している意味はないのかも知れない。だって、クラシックにそんな興味もないし。曲とか、知らんし。
そう。良くも悪くも、僕にとって、ヴィオラというのは「大学時代の象徴」であり、それ以降の人生には深く関わってこない気がしている。
ちょっともったいない気もするが、きっと僕は、オーケストラという世界に馴染めない人間だったんじゃないかなと。
きっと皆は、皆で一つの音楽を創ることを楽しみにしている。対して僕は、自分が弾くことにしか楽しみを見出していない。
僕にとって、ヴィオラは若き日の思い出であり、きっと・・・・・・・・・・・・もう、僕の傍には、居てくれないんだろう。
もしかしたら、またいつか、オーケストラをやることもあるかも知れない。
でも・・・・・・結局、本気には、ならないんだろうな。所詮、時間のない社会人ができることって、たかが知れている・・・・・・。
そう、仕方のないことなのだ。僕は、新しい人生を歩まなくては、いけないのかも知れないね。
これが、僕とヴィオラの出会いの話であり、きっと・・・・・・別れの話でも、あるんだろう。